映画和日乗

映画、食、人。西に東に。

                         

「フィリピンパブ嬢の社会学」宝塚シネ・ピピア舞台挨拶①

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「関心領域」監督ジョナサン・グレイザー at 大阪ステーションシネマ

a24films.com

 

 

 ルドルフ・ヘスについて、幾ばくかの知識はあった。本作「関心領域」は注意深くナチスの極悪人という典型を避けて描いているという点では、これまでの映像表現とは一線を画している。

 あの時代のあの場所を今、いかにして伝えるかという方法論が念入り且つ繊細に描かれて行く。

 スピルバーグが「シンドラーのリスト」('93)であの時代をモノクロで描くことでドキュメンタリー的効果を狙っていたが、それは「観る側の映画的記憶」に頼った表現でもあった。殆どの観客が色のついた「かの時代の映像」を観てはいない。色彩は、生存する犠牲者と加害者(傍観者も含む)の記憶の中にだけある筈だ。

 本作はまずその点を抉って来る。

まるでモノクロに着色したかのようなルック、だがフィルムの質感とは違う、明らかにデジタルの生々しさ。何千本と作られてきたであろうあの時代を描く映画の中で、際立ってリアルに「見える」そして「感じる」。

そう、作り手も観客のその殆ども知らない筈の時代の色を不穏極まりない音の表現とを複合させ、視覚聴覚に訴える禍々しさは新しい体験と言える。

 ルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)の妻ヘートヴィヒ(ザンドラ・ヒューラー)の母親の台詞、母親は戦前はユダヤ人家庭の家政婦だった、そして元の雇い主は「塀の向こう」にいると。それが当然であるとも言いたげな言い回しに慄然とする。

当時のドイツ軍勢の中でも親衛隊は非エリート集団だった事がその一言で伝わる。

しかしこのヘスの義母はある日何も告げずに屋敷を出る。母の置き手紙を暖炉に放り込む娘。手紙の内容は観客には示されない。音と匂いに我慢ができなかった事を実の娘に直接伝えられなかったというあの時代の人間関係。

一方状況を全て「是」として、ユダヤ人下女には悪様に「灰にしてやる」と告げるヘートヴィヒ。

 一旦はアウシュビッツから離任しながら、ハンガリーからの更なるユダヤ人大量移送の為復帰を命じられるヘス、老婆の連れている犬を愛で、健康診断を受け、妻に単身赴任が終わることを伝え、パーティに出た後、会場の階段で嘔吐する。

 この嘔吐で、ハッとなる。ヘスと「我々」に如何なる差があるというのか。犬以外には家族にも笑顔を見せないヘスの感情を押し殺した内心は果たして悪魔と言えるのか。同じく、ヘスの義母は現代でもそこいら中にいるのではないか。

 強制労働させられるユダヤ人の為に深夜密かに林檎や梨を配る少女。ネガ反転のようなルックで描かれるそれは、「私たち」の中の誰か、である筈だが決して私ではない事を撃つ。

この映画のモチーフは「あなたはその立場になった時、彼や彼女と何が違いますか」という、痛烈な問いに思えてならない。

 

 戦後処刑されたヘス、彼以外の家族は一体どうなったのだろうかと検索してみると、2015年のこんな記事を見つけた。

 

blog.goo.ne.jp

平日昼間の大阪、ほぼ満席。まだ佳き映画の力は信じられる。

佳作、お勧め。

 

「インディアンカレー」三番街店

タリーズコービー茶屋町MBS店で打ち合わせ。

 

インデアンカレー Indian Curry | 1947年の創業以来ずっと守り続けている味

 

 

 

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「バティモン5 望まれざる者」監督ラジ・リ at 新宿武蔵野館

unifrance.jp

 監督のラジ・リはマリ出身。マリは旧フランス領だが、国民の90%がイスラム教徒だとのこと。その事はこの映画に深く影響を与えている。

 冒頭、エレベーターの無い団地の一室から柩が運び出される。担いでいるのはアフリカ系の移民たちである。

井筒和幸監督「パッチギ!」(2004)で、京都の朝鮮人集落のバラック家屋から柩を出すのにドアを壊すシーンを思い出す。差別される側の死して尚、という意味では同じモチーフだ。

 一転、その団地を建て替えるために爆破するというセレモニーが始まる。爆破の衝撃で演壇に立っていた市長が発作を起こして急死。この一連のオープニングは鮮やか。

急遽、代議士投票で小児科医が新市長となる。前任者の任期を引き継ぐ制度なのか、次の市長選挙までの暫定市長なのだが、俄然張り切って移民排除政策の強化に乗り出す。

副市長は移民出身だが権力に寄り添う世渡り上手。一方、市役所に勤めるアビー・ケイタ(アンタ・ディアウ)はアフリカの現地語のほかフランス語も英語も話す。聡明で日々移民の苦情や困り事に対応している。

そこへ英語を話すシリア系の移民が就職して来る。どうやら新市長夫人の「紹介」らしい。彼女とその父親が「優遇」されるのは彼らがキリスト教徒だからである。

フランスは自由と平等の国である一方、その権利を獲得する為には同化を求める。それが義務と言っても過言ではない。信教の自由はあるが、キリスト教もまたその重要なファクターである

ここでのシリア移民への「依怙贔屓」はやや強調が過ぎる描写だが、恐らくムスリムであろうラジ・リ監督の力点でもある。

 アフリカ系移民への圧力が強まり、団地からの総立ち退きへと事態は悪化する。アビーは猛反発し、市長選挙への立候補を宣言する。民主主義の手段と権利で闘おうとするアビー。

突然の総立ち退き命令はクリスマス当日。この設定は流石に違和感を感じざるを得ない。反キリスト教のメタファーとしてのクリスマスの蛮行に見えた。

そして、この大規模な立ち退きの描写は見事な迫力があるものの、その後のアビーの彼氏ブラズ(アリストート・ルインドゥラ)が怒りを爆発させて起こすある行動(ここでは伏せておく)への脚本上の仕掛けである事が透けて見える。

単純な話し、クリスマスにそんな大規模で過酷な「労働」をフランス人がする筈がないと思う。クリスマスには戦争すら休むお国柄である。ここにも宗教上の力点を感じてしまう。

和解も解決もない。ラストの暴力よりも選挙の結果が知りたかった。力のこもった描写には感服するが、惜しい。

 

 

 

「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群」監督・大林宣彦 at シネマヴェーラ渋谷

 

1988年の作品。ヴェーラの「大井町武蔵野館になってみた!」プログラムの一本。

フィルム上映。劣化はそれほどでもない、アグファフィルム特有の赤味も残っている。

www.cinemavera.com

 大林作品の順番としては「漂流教室」('87)の後、「異人たちとの夏」('88)の前となっているが、中森明菜主演、長谷川和彦監督作品の併映作として企画されていたらしく、だとすると1985、6年前後に撮影されていたと推察する。

 竹内力は今でこそ「ミナミの帝王」だがこの当時は爽やか二枚目、奇しくも高利の金貸しの役は三浦友和。その同期の櫻、ヤクザの親分の息子に永島敏行。

尾道が舞台、時代設定はよく分からない仮構で塗り固める、むせかえるような大林節。

話は夕子(南果歩)という女を巡る三人の男の争奪戦。1秒12コマ撮影(普通は24コマ撮影)で1930年代のサイレント映画風の動きを表出させる。今では絶対撮影できないロリコン趣味も満開で怖いくらいだ。

呆れるほどの個人映画への帰還、棒立ち棒読みの素人然とした女優や地元民を起用しているのもその矜持の現れ。一旦中止を余儀なくされながら蘇った企画らしいが、大林宣彦濫作時代の妖しい徒花。